真夏の朝、5時過ぎに起きて草刈りに出かける。

 我が家を出て坂道を登り、更に棚田の連なる傾斜地の間の一本道をどんどん登っていく。途中、蒲の沼があったり、大きな枇杷の木をくぐったり、杏の木を通り過ぎたりすると、渋柿が一本。その近くの芭蕉はこの時期大きな枝にバナナ状の実をたわわに付けている。15分も息を切らして登っていくと1000坪以上はあろう斜面の休耕田は一面の葛の海と言いたくなる位、葛が激しく成長している。登っていく周囲は、一つ一つは名が付いているだろう何十種類もの植物の群れ、雑草群に埋め尽くされている。 やっと我が家の果樹園に着く。果樹園と言っても今はミカン3本、ブドウ、杏、柿、枇杷を植えたばかり。45年先には収穫できるだろう。見下ろすと瀬戸の島々と海が邪魔するものなく一望に見渡せる。

 大きく息をしたくなる。朝ぐもりの乳白色の瀬戸の海は少し桃色がかって、小さな漁船が一、二艘。まだ全てが眠っている世界が眼下に拡がる。この世界一帯から何かが秘かに聴こえてくる様な気がしてきた。振り向いてみた。何か聴こえる。耳だけではとらえられない。体全体で聴くとどうにか聞こえるかも知れない微かさ。何だろう?

 それは一面に棲息する植物の息する音かも知れない。気が付いたが、植物はそのものからは音は発しない。しかし、朝5時、全てが眠っている自然の中で植物の吐息だけが聴こえてくる気がした。植物の息づかいはこんな音をたてるのだ! 幸せな息づかいだ。 と、トンボが今起きたばかりの一匹。飛んできた。昆虫の荒々しい、激しい息づかいが、朝靄の中で響く。

 草刈機のエンジンを廻す。哺乳類で特別進化した人類のけたたましい音が鳴り響く。私の草刈りが始まる。しかし、今朝の一帯を支配した植物の吐息は忘れられない。

我が家から見下ろす瀬戸の海に白い波が立つことは滅多にない。常に何もない様に横たわっている。
海の色は空の色の投影だと思っていたが、当たってないことはないが、そうで無い部分もある様だ。
真っ青な空の時は濃い群青の海が美しい。重い雲一面の空の時は雲の色に海はなっている。が、雲に覆われた空の下で海が青い色を保っている日もある。おそらく大気の温度や湿度でも微妙に海の色は変わるのだろう。確かに言える事は海は一日として同じ色をしていないという事。
夕映えの海の美しさは格別だが、海を毎日見ているとその色の変幻は太古の昔から変わらず、毎日色は違ってきていたのだろう。
その海を見下ろす家の裏の高い山は冬の最後の姿を見せている。
すっかり冬の山になり切ってから二か月位は経つだろうか。枯れる葉は枯れ、常緑樹の枝の緑も冬の色に定まってから動かず、眠った様な冬の山を毎日見上げているうちに、動かず眠った様な山の色も微かではあるが微妙に毎日違う事を発見した。大気の具合でそうなるのか?さらに目を凝らし、耳を澄ませば、眠った山のようではあるが蠢いている気配を感じる。いずれ来るであろう春を予感している様に思えるのは人間の勝手な解釈だろう。が、確かに山は蠢いている。
海は生きている。山は生きている。ささやかに人も生きている。
山と海に挟まれた家に日々暮らせる幸せを感じる。
濡れ縁に出て熱い緑茶を一杯飲むだけで充分だ。

怒り狂った台風が次から次へやってきて、来る日も来る日も怒りが収まらない様な太陽が照り付けた猛暑の夏も、台風25号で終わり、久方の平穏が訪れている。あちこちに秋になった証が見られる。
モミジは夏の暑さを乗り越え無事に生き抜いた。葉達が紅く染まり始めようとする意志を見せている。朝、濡れ縁に座って秋晴れの陽の下のモミジの一葉一葉を見つめ渡していると、過酷な夏を乗り越えた誇らしさを訴えている一枚一枚を感じる。葉の底にはこの秋、真っ赤に紅葉する準備が整った気配がうかがえる。が、表に色はまだ染め出てはいない。
山査子、くろもじ、木斛(もっこく)、枝垂桜、文の木、河津桜、月桂樹、金木犀、山茶花、椿、松、梅、夏椿、さるすべり、紫式部、つつじ。庭を占めるこれらの樹もそれぞれが季節の移り変わりの準備を、人に識られない様に、毎日少しずつ密かに、しかし確実に進めている。耳を澄ませ息を殺して五感を研ぎ澄ませば全ての樹が別々の独特の言いぐさで季節の移り変わりの感嘆をぶつぶつつぶやいてくれている。
そのつぶやきが交じり合い響き合い大きな渦となり、波紋が収まる様にその内その響きの中から一筋の言葉が現れてくる様な気がする。それらは言おうとして言えなかった私のたくさんの言葉かも知れない。又、聞こうとして聞けなかった彼の人の言葉である様にも思えてくる。
淡い芙蓉をすかす陽ざしの中に迷い込む幻覚へと身をゆだねる秋の晴れた朝の心地よさ。
都忘れの控えめな紫が今朝はとりわけ美しい。

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