秋が来た。

暑かった夏は終わった。異常気象と騒がれた今年の夏の暑さは単に天体のみのなせる術ではなく、ウクライナ、コロナ7波、国葬、統一教会など、人の世の煩わしさが次々押し寄せて、妙な世の軋轢をも作用して気持ちの悪い暑さだった。その余韻がまだ浸みわたって来ているが、虫の音は日に日に高まり澄み切った汚れのない響きは夜半を埋め尽くしている。

高校時代スタンダールの「赤と黒」を徹夜で読んだことがある。そのすぐ後にフランス映画の「赤と黒」を観た。

「あれっ!全然違う。」と思った。映画の印象は表面を流れ行くように薄い。本から得たものは、紙には文字しかなく挿絵もないので色彩もなく白っぽい紙の色と活字の黒い色のみ。だが、深い池の底で鐘がゆったりと鳴る重い印象が体に棲みついた気がした。スタンダールがこの小説を通して他人に主張したかった事が映画と本の活字というコミュニケーションの仕方の違いで別の物になるという不思議な体験をした。

最古の人類が出現したのは500万年前。という定説が今では主流になりつつある。現代人と同じ人類になり切ったのは5万年前。既にその時代になると宗教的行為も行われ精神文化の存在が確認されている。未知の物への探求は想像力を頼りに切れ目なく行われ、人類の生活はぐんぐん進化し、その後きらびやかな文明を次々と形成してきた。産業革命以後は文明の進化は加速し続け、わずか300年の間に人類は他の生物を圧倒的に凌駕する成果を残しながら発展してまた人間の持つ想像力と英知の両輪は5万年前の人間のとは比べようもない位進化発展し生活環境を変えてきた。そしてIT革命という新たに人類が獲得した変化はわずか3040年でその前の時代の200300年に匹敵すると言っても過言ではない急激な変化をもたらしている。スマホを通しての世界の体験の在り方はあらゆる地域、民族、国を超えてオールマイティとも言える力を均一に発揮している。

私もスマホの力を利用しあてにしている。

スタンダールの「赤と黒」の感じ方が本と映画では歴然と違うショックを思い出す。本は一文字一文字から来る情報を読者個々の人それぞれの想像力をうんうんうなりながら駆使して未知の世界を体験しその世界を体で取り込んで感極まっている人間を創り出す。スマホの世界は想像力を必要としているのだろうか?という不思議な疑問が湧いてくる。想像力を弱体化させられた人間はどんな日々を送ればいいのだろうか?想像力の弱まった人間は、人間の肉体に何かしら嫌な違和感を与えてはいないだろうか?

「すべての書を読みぬ

 されど肉体は悲し」ジャン・コクトー

この言葉が身に染みる昨今である。

宏樹庵の裏にそびえる米山(標高600m)は1万年前からその姿を変えずに鎮座している。そして今後も変わることはないだろう。

明日は節分。我が家の畑は、白菜、キャベツ、大根、高菜、セニョールスティック、ほうれん草、ルッコラ、フェルトザラートが食べ頃。

採れたての野菜の味は美味いと言われるけれど、その実感を日々味わえるのは有り難い。採ってすぐの野菜はどの野菜にも共通の甘みがある。オクラにすらあり、ブロッコリーにもある。それらはオクラの甘みではなく、どの野菜にも共通の独立した甘みである。野菜の命の源とでもいうか、唯一無比の甘みである。味はそこから発生して個別の味を創り上げ、キュウリの味、トマトの味、ピーマンの味として現れてくる。

役者さんは味わいのある演技という言葉を使う。味のある演奏ともいう。味わい深い色の使い方、味なことをするじゃない!! と言ったりする。食べて分かる味以外に人間は味を感じるようだ。

味のある人物だとも言う。未開地の人喰い族は別かも知れないが、一般にはその人間を喰べた感想ではない。雲の無限さに、赤陽の沈む色合いの変化に味わいを感じる時もある。味覚をはるかに超えた味わいというものの実体は何であろう。時空を超えた時間と大気と色と音と、それぞれの感覚が刺激し合って生まれる実体の無い、しかし、手ごたえのある何らかの存在を感じさせてくれるものが味わいと言われるのかも知れない。生き物の中で人間だけに備わった特別の感覚かもしれない。雲の無限の変化に味わいを感じるイノシシはいるはずはない。

最近ひょんなきっかけから料理に目覚めて嬉しく作っている。少しずつ美味しく作れるようになってきている。

梅の花が一つ、一つと咲き始めた。「冬眠る」のこの時期の季節の色彩の環境の中で、白い色はそんなに鮮やかに目立つわけではない。しかしこの極寒の季節の中で一枚一枚花びらを開示した末の花は力強い意志を感じさせてくれる。春が到来する予知の役目をきちんと果たしている。この自然の営みの中にも味わいを感じる。味のある言葉、味のある人間、味のある社会が少しずつ少なくなっていく淋しさを感じる。味のある政治家はほとんど消滅してしまった。

凛として咲く一つだけの梅の花の力に人間は負けてはならない。満開の梅になった後、春がやって来る。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる

夏休み帰省した小学生の孫達が、夕食後は毎日百人一首で遊んでいる。千年以上も前の貴族の嗜みの文学をおもちゃにして遊ぶ子供達。彼等はオンラインと言う言葉も知っている。
今日は立秋
今年の立秋は愛知県の多治見で40.6度の猛暑を記録した。7月にはドイツ北西部で豪雨による川の氾濫、家屋の水没という惨事があり、しばらく国際的な話題となって映像が流れ続けた。
ドイツは勤勉、秩序、規律遵守、綺麗好き、完全主義。そんな形容詞がピッタリで、そんな国の特徴が日本との共通点として挙げられる。が、自然との関わりが国の成立の歴史に深く関係しているという事においてはヨーロッパのどの国よりも日本に似ている。
712年に編まれた古事記の中には三百近い「神」が記されている。日本人はその昔から山も川も滝も火も海も、自然界の目につくもの全て簡単に「神」にして深く信仰してきた。
ドイツはゲルマン神話を精神の拠り所にしてきた。深い森の中に人智を越えた何かが潜み存在し、そのものに対する慄きと畏敬を持ち続けてきたドイツ人。森や山岳を心の深い所の拠り所にして、歴史を重ねてきたドイツの社会では、ゲルマン神話の精神が現代でも息づいている。自動車、電気、電子、機械に次ぐものとして林業が未だに主要産業になっている。また、有機の食品、薬品、化粧品が広く社会に浸透している。国のエコロジー政策は国際的に群を抜いている。「自然」は恐るべき力の宿った得体の知れない存在で、それをドイツ人は身近に感じ厳しくとも相対して、むしろ自然を飼い慣らし利用すべきだと考え歩んできている。
人間の現実生活、精神生活に自然が息づいている日本とドイツ。
見事に人間社会に自然を取り込んで飼い慣らし利用しているドイツに比べて日本には少し物足りなさを感じる。
隙間風のように自然が人間社会を何の了解もなしに通り抜けていってしまう頼り無さ。
「風の音にぞ驚かれぬる」
風の音に動かされる自分の気持ちの中に自然を感じ、それ以上でもそれ以下でもない自然は流れて行ってしまう。
オンラインの現代社会では隙間風が通り抜けない。
何でも神にしてしまう日本人。コンピューターがどんな驚異的な力を持ち始めても「神」にはしないだろう。

台風9号は風は強くなく、夜来物凄い音を立てて雨を降らせた。日照り続きの中、恵の雨であった。雨の「神」を信じる。

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