カテゴリ: 啓一郎の徒然草

今も鳴き続けているが、今年の鶯はひどかった。
春になると山から降りて来て秋になろうという位まで鳴く。今年は「ドキッドキッね!」と私には聞こえる鳴き方の鶯が居付いた。鶯は母親が鳴いた通りに鳴くそうで、さぞ親を恨んでいるだろうと思いきや、鶯はそうは思うまい。自信満々にひどい鳴き方で誇らしげに鳴いている。「ホーホケッキョ!」が何故「ドキッドキッね!」なのだ!!
鳥の声はよく響く。響かせてやろうという邪心がないから空気に素直に溶け込み、陰りのない純粋な響きがよく響く。鳴く事に何の不安もないから更によく響く。
41年間休む事なくやってきたリサイタルを終えた。
シューマン、ファリャ、エネスコ、モーツァルト、ニンの作品を演奏した。
言葉で音楽を、演奏を、語ったり書いたりするのは難しい。書いてみると殆ど言い当ててないという事は自信を持って言える。時間芸術だから時間の経過の塩梅の良し悪しという事は言える。人間、頭に頼る事を善しとする所があるから頭に頼ってその塩梅をつかんで演奏しようとすると時間が生きないで死んでしまう。自然の摂理が息づいている世界に未来永劫流れ続ける絶対的な時間の流れというものがあり、それに触れると人間誰しも何とも言えない幸せな気持ちになる。誰でも死というもので生が遮断されるという事を本能的に確信して生きているから、永劫に変わらないのだろうと思わされるものに触れたくなるのだろう。そんな絶対的な時間に触れる様な演奏を聴衆も演奏者も求めているのかも知れない。
雨の音、林を抜ける風の音、海の音、鳥の声。人為の入らない自然界に流れる音はよく耳を澄ますと絶対的な時間の流れをハッと感じさせる。夏椿の白い花が庭に浮かんでいる。サンザシのまだ白い実が風に揺れている。響き渡る「ドキッドキッね!」と鳴く鶯の声にも何故か一瞬、未来永劫流れる時間を感じてしまった。
今年のリサイタルを終え、音楽を更にいとおしいものと思う気持ちが湧いてきた。

 

10月18日、東京で朝を迎えた。その朝は待ち望んだ輝かしい陽射しを地球いっぱいに降り注ぐ様に明けた。窓は真っ青な朝の秋空から直線的に射す陽で祭りの様な華やぎ。が、それも朝、早い午後のみで又、すぐ雨になると言う、しかも遅めの台風が発生し、またずっと前線を刺激して雨は降り続くという、そんな天気予報を聞くから余計に朝陽のわずかな命の輝きに高揚する気分を抑えきれない。秋雨前線が長く居座り、雨がしとしと降り続いたり、まともに降り続いたり、風と共に降り暴れたり、生まれてこの方地球は雨しか知らないのではないかと思うような今年の秋。

秋、冬野菜の種の植え付けをするのが丁度この時期。植え付けの2週間位前にたっぷりの堆肥と、土の酸化を防ぐため苦土石灰を畑に撒いて土作りをするが、雨だと作業が出来ないばかりでなく、雨で湿りきった土がある程度、耕運機になじむ位、土の乾きが必要で、ただただ晴れてくれるのを待つばかり。太陽を待つばかり。植える時期が天候のせいで遅れると、うんと先の収穫に影響する。祈る様に陽射しを希む日が続く。

瀬戸の海から海面を這う様に、しかも真っ赤に昇る太陽は美しい。また、重なる中国山地の山々に一刻一刻と色を変えながら沈む夕陽も胸を打つ。ヨーロッパ演奏旅行中、夕暮れのパリ郊外のバスからセーヌ川に沈む太陽にも感動した。フランスの太陽は美しいと思ったが、日本で見るあの同じ太陽なんだと妙な気分になった。砂漠で迷ったら灼熱の太陽は地獄の苦しみを人間に与えるのだろう。

太陽は地球上のすべての明かりと熱と生物の生存を司る無限の力を人間から見たら持っている様に見える。が、太陽を司る更に大きな力のもとで自分の役を過不足なくやっているだけなのだろう。一つしかない太陽無しで人間は生きられない。

グローバル化!グローバル化!と必死に叫ぶ人間の声。太陽の耳にはどう響いているのだろう。

 

倉庫の屋根に覆いかぶさる様に棲息しているどんぐりの木の実の落下の音はけたたましい。

また一つ落ちた!!


今まで出くわしたことの無い濃い霧がこの2~3日続き、岩国空港発着の飛行機全便が欠航になった。我が家に通ずる竹林にも霧が流れ、家から見上げる米山(標高六百メートル位)もすっぽり覆われ、霧の他何も無くなった。いつも視界に入ってはいても気に留める事のない米山が全く見えなくなると不安になる事に気が付いた。

冬、眠っていた山が春になり、息づき始め、白く斑点の如く点在するのは山桜。染井吉野が咲く頃には山は笑う。我が家、我が集落を守るようにそびえる米山。その山の向こうには何があるのだろうと空想を誘うのも山。子供の頃過ごした宇部は200~300メートルの低い山しかないが、山のこっちと山の向こうは全く別の世界が存在する強い実感を子供心に持っていたことを思い出す。

大人になってもその実感は胸の底にうごめいている。

自分の知らない事、見たこともない事、不思議な事が、見えない山の向こうに確かにありそうな衝動を山の稜線は与えてくれる。太古の昔から変わらず人の営みを黙って見てきた山の大きさにすがりたい気持ちにもなる。何をぶっつけても山は何も答えてくれない大きさにむしろ安らぎさえ感じる。その山の向こうにはさらに大きなものが有りそうな空想を山は黙って誘ってくれる。

想像を絶する量の正確とみなされた答えを、瞬時に与えくれ続けるコンピューターの画面は笑いもしない。したたりもしない。装いもしない。眠りもしない。

もう答えは要らないのではないか?

答えがないと落ち着いていられない世の中にだんだんなってきているのだろうか。

庭の池のほとりの無数に付いた白い八重の椿の大きな花は落ちる時、どさっと音を立てる。山よりもさらに大きな力がその音を受け止めている気がする。

陽が射し、午後になり、霧が少し晴れてきた。米山が少し見えてきた。

安心して熱いコーヒーを濡縁で飲む。

さんざしの赤い実も台風でだいぶ落ちた。姫リンゴの大きさで噛むと甘酸っぱい香りが口に拡がる。山田耕筰の「この道」の歌詞に出て来るさんざし。金木犀の盛りは終わった。二本ある。小菊が庭のあちこちに咲き揃い始めた。秋明菊の紅色の花も伸びてきた。紅葉は最後の緑色を放って、今か今かと赤く染め始める時をじっと待っている。秋が、見えないがすっかり準備され、いつでも始められるような微妙な季節。庭のモッコクの奥は万両の枝がようやく識別できる程の仄暗さが更に奥へ奥へと拡がっている。よくは知らないが、ガーデニングと称する西洋風の庭作りは、どの草木も全て明らかになるように配置され、晴れた日はどの植物も嬉しそうに陽を浴びているような気がする。和風の庭は暗い陰の部分をわざわざ作るのか、或いは出来てしまった陰の部分に陽を浴びせるような工夫はせずそのままにしておくのか、その暗がりが何とも言えない風情を醸し出している。苔を生かした庭も多いが、苔も少し暗く湿っぽさがないと美しく育たない。庭の隅々までライトアップして明らかにしてしまう心持ちは和風庭園には無い。陰の所に何かがありそうな興味、創造が湧く。虫の音もその暗がりから聴こえてくる心地がする。小鳥がバサッとそこから飛び立ったのか万両の仄暗い枝が揺れたような気がする。



暗闇を愛でる風情はだんだん世の中から失われつつあるが、暗さの奥に向かって想像すると何かが在り、うごめいているような怖さのドキドキは失いたくない感覚だ。何もかも明らかにならないと気が済まない、或いは明らかになっているという錯覚の中にどっぷり浸りつつある現代。僅かに残っている本当の暗闇を大事にしたいと思う。



 陽に当たったさんざしの赤い実がひときわ鮮やかな秋の日。



2016.10.10



最果ての東の小さな島国日本の誰もが知っているシューベルト。31歳でこの世を去った時は、ヨーロッパはおろか、生まれ育ったウィーンですらその名を知る人は限られていた。生前、ほとんどその才能が世に知られていなかった彼の死んだ年。「幻想曲」という名のピアノとヴァイオリンの二重奏曲を彼は書き残した。



その曲を今年のリサイタルで演奏した。



いろんな野菜を作り始めて20年は経って、最近は耕運機を使って本格的にやり始めたが、どの解説書にも作り易く初心者向けと書いてあるナスが昔から相性が合わず、まともに育った事がない。ナスだけは心が砕けて、苗に手を出せなくなってもう十数年になるだろう。



もともと楽器の演奏が不得手な当時としては珍しい音楽家シューベルトが、この「幻想曲」ではヴィルトゥオーゾな超絶技巧を要する曲に仕上げている。パガニーニやリストも一目置く演奏家に遭遇し刺激を受けて書く事に思い切ったようだ。



そのナスを思い切って3株のみ今年は買った。そして植えた。おそらく駄目だろうと見越してあまり肥沃な場所には植えなかった。



「幻想曲」をさらい始めて、何とも難しい。誤魔化したらどうにかいくが誤魔化しが効かない。取り組み始めて深いため息を人知れずするような日々が続く。



植え付けたナスは案の定うらなり然として、成長という意志をどこかに置き去りにしたような姿を来る日も来る日も晒していた。同じく植えた8株のトマトはみるみる太く高くなる。キュウリも毎日毎日つるを伸ばし空へ空へと成長し始めた。



シューベルトの歌曲の持つ比類ない抒情性を息づかせ、なお超絶技巧の鮮やかさをピアノもヴァイオリンも強く求められるこの曲は、魅力的であるからこそ余計に上手く弾ける見通しが立たない。



ナスは少し伸び、何よりも芽の紫の濃さが希望を与えてくれる。芽の紫が濃ければ濃い程、成長している証。



リサイタルの本番は「幻想曲」は一つの域を乗り越えられ、皆さんに喜んでもらった。



無事終えて十日ぶりに岩国に帰り、すぐ畑に出向いた。ナスの苗はぐんと逞しく張り、黒に近い芽がいくつも付いていた。濃い紫のナスの芽は梅雨の中休みの強い日を浴び、正しく天を向いて真夏を待つ。



夏休みの大勢の来客に喰われるのを待つ。



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