職業がら楽器の品定めの参考にと、良し悪しの評価の感想を求められることがよくある。出来立ての新しい物から、何百年も前に作られたオールド楽器まで様々だ。
楽器はまず弾いて音を聴いてみるのが常道だろう。が、私は楽器の表板、裏板を指の先の肉の部分で叩いてみる。医師の触診と同じ。叩いた感触で良し悪しが判断できる。触診なので音は出さないから音楽専門家でなくても判断可能である。ストラディバリウスのような銘器は叩いた指の肉への撥ね返りが鋼鉄のような張りを持っている。逆に出来たばかりの楽器でも作りが悪ければ張りの無い老人の肌のようである。
五感を良い塩梅に使いこなさないと人間生活にひずみが生じることになる。
オランダの画家エッシャーの「目で見ているものが実際とは違って見えてしまう」錯視がらみの絵からはいろいろな事を学ばされる。産業革命以後の科学の力を最大限に駆使した文明の進化は使い勝手の良い視覚をフルに使い、次々と新しい世界を見つけ出し日常生活に取り入れ快適な生活を求め、それをむさぼるように享受してきた。先進国はITの時代に突入してそろそろ行き止まりだと思われた文明の進化を駄目押しの如く急な速度で後押しし、地球上のあらゆる人類にその恩恵を与えてきている。スマホである。
画面から流れ映される驚異的な量の情報により人間は様々な世界を瞬時に知ることが出来ている。その時人間が使う感覚は視覚が主で味覚、触覚、臭覚は使わず聴覚がわずかに視覚を補う程度の働きで作用する事もある。世界に在るあらゆる事は視覚から得る情報で全てを認識経験できる事をスマホは教えてくれる。視覚の独壇場である。触覚は特に片隅に追いやられてしまって久しい。手探りという言葉通り、手で触れた情報から認識を構築していく作業は効率の悪い無駄とみなされ人間生活の表舞台から降ろされ始めてもうずいぶんの年月が経ってきているが、その流れはスマホの出現で一挙に加速してきてしまった。奇妙な社会現象がぽつりぽつりと起こり始めている。個々の人間の中に五感が作用し合う機能が不全になり始めている。
触れるという言葉は多様に使いこなされてきた。リンゴに触れると言う物体に接触する以外に、素晴らしい人に触れて…音楽に触れて…そんな言葉に触れて…折に触れ…など触覚の触れという言葉を日本では豊かに使いこなしてきた。
触覚文化を取り戻したいと願う。
燃え上がる暖炉の炎のゆらめきを眺めながら大寒の日々を過ごしている。
春が待たれる。

秋が来た。

暑かった夏は終わった。異常気象と騒がれた今年の夏の暑さは単に天体のみのなせる術ではなく、ウクライナ、コロナ7波、国葬、統一教会など、人の世の煩わしさが次々押し寄せて、妙な世の軋轢をも作用して気持ちの悪い暑さだった。その余韻がまだ浸みわたって来ているが、虫の音は日に日に高まり澄み切った汚れのない響きは夜半を埋め尽くしている。

高校時代スタンダールの「赤と黒」を徹夜で読んだことがある。そのすぐ後にフランス映画の「赤と黒」を観た。

「あれっ!全然違う。」と思った。映画の印象は表面を流れ行くように薄い。本から得たものは、紙には文字しかなく挿絵もないので色彩もなく白っぽい紙の色と活字の黒い色のみ。だが、深い池の底で鐘がゆったりと鳴る重い印象が体に棲みついた気がした。スタンダールがこの小説を通して他人に主張したかった事が映画と本の活字というコミュニケーションの仕方の違いで別の物になるという不思議な体験をした。

最古の人類が出現したのは500万年前。という定説が今では主流になりつつある。現代人と同じ人類になり切ったのは5万年前。既にその時代になると宗教的行為も行われ精神文化の存在が確認されている。未知の物への探求は想像力を頼りに切れ目なく行われ、人類の生活はぐんぐん進化し、その後きらびやかな文明を次々と形成してきた。産業革命以後は文明の進化は加速し続け、わずか300年の間に人類は他の生物を圧倒的に凌駕する成果を残しながら発展してまた人間の持つ想像力と英知の両輪は5万年前の人間のとは比べようもない位進化発展し生活環境を変えてきた。そしてIT革命という新たに人類が獲得した変化はわずか3040年でその前の時代の200300年に匹敵すると言っても過言ではない急激な変化をもたらしている。スマホを通しての世界の体験の在り方はあらゆる地域、民族、国を超えてオールマイティとも言える力を均一に発揮している。

私もスマホの力を利用しあてにしている。

スタンダールの「赤と黒」の感じ方が本と映画では歴然と違うショックを思い出す。本は一文字一文字から来る情報を読者個々の人それぞれの想像力をうんうんうなりながら駆使して未知の世界を体験しその世界を体で取り込んで感極まっている人間を創り出す。スマホの世界は想像力を必要としているのだろうか?という不思議な疑問が湧いてくる。想像力を弱体化させられた人間はどんな日々を送ればいいのだろうか?想像力の弱まった人間は、人間の肉体に何かしら嫌な違和感を与えてはいないだろうか?

「すべての書を読みぬ

 されど肉体は悲し」ジャン・コクトー

この言葉が身に染みる昨今である。

宏樹庵の裏にそびえる米山(標高600m)は1万年前からその姿を変えずに鎮座している。そして今後も変わることはないだろう。

明日は節分。我が家の畑は、白菜、キャベツ、大根、高菜、セニョールスティック、ほうれん草、ルッコラ、フェルトザラートが食べ頃。

採れたての野菜の味は美味いと言われるけれど、その実感を日々味わえるのは有り難い。採ってすぐの野菜はどの野菜にも共通の甘みがある。オクラにすらあり、ブロッコリーにもある。それらはオクラの甘みではなく、どの野菜にも共通の独立した甘みである。野菜の命の源とでもいうか、唯一無比の甘みである。味はそこから発生して個別の味を創り上げ、キュウリの味、トマトの味、ピーマンの味として現れてくる。

役者さんは味わいのある演技という言葉を使う。味のある演奏ともいう。味わい深い色の使い方、味なことをするじゃない!! と言ったりする。食べて分かる味以外に人間は味を感じるようだ。

味のある人物だとも言う。未開地の人喰い族は別かも知れないが、一般にはその人間を喰べた感想ではない。雲の無限さに、赤陽の沈む色合いの変化に味わいを感じる時もある。味覚をはるかに超えた味わいというものの実体は何であろう。時空を超えた時間と大気と色と音と、それぞれの感覚が刺激し合って生まれる実体の無い、しかし、手ごたえのある何らかの存在を感じさせてくれるものが味わいと言われるのかも知れない。生き物の中で人間だけに備わった特別の感覚かもしれない。雲の無限の変化に味わいを感じるイノシシはいるはずはない。

最近ひょんなきっかけから料理に目覚めて嬉しく作っている。少しずつ美味しく作れるようになってきている。

梅の花が一つ、一つと咲き始めた。「冬眠る」のこの時期の季節の色彩の環境の中で、白い色はそんなに鮮やかに目立つわけではない。しかしこの極寒の季節の中で一枚一枚花びらを開示した末の花は力強い意志を感じさせてくれる。春が到来する予知の役目をきちんと果たしている。この自然の営みの中にも味わいを感じる。味のある言葉、味のある人間、味のある社会が少しずつ少なくなっていく淋しさを感じる。味のある政治家はほとんど消滅してしまった。

凛として咲く一つだけの梅の花の力に人間は負けてはならない。満開の梅になった後、春がやって来る。

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