石蕗の花が鮮やかに咲いた。
晩秋。
ノーベル賞を今年二人の日本人が貰った。難解な学問由、全てはとても解らないが、テレビ、新聞で一般大衆にその業績が解り易く説明されるので、解ったような気持ちにさせられる。
凄いと思う。
まだ発見されていない真理を見つけ出す喜びは科学者のみならず誰しもが持っている人間の一つの特性ではあろう。とは言ってもそういった真理を見つけ出したいという強烈な欲求を持ち続けられる人のみが新たな真理の発見という世界に踏み込める。そうして見つけ出された真理は誰がやっても同じ結果を何度でも再現が可能という法則である事が真理なる所以である。やる人によって結果がまちまちで10人やれば10通りの結果が出るのでは困る。

じっと手を眺める。
ヴァイオリンを弾いていてこの楽章はこう弾きたいと思う事が決まれば、そうするには、といろんな事を考え、それを基に何十回も繰り返し繰り返し練習をし、何とかその思い通りの演奏を何回でも再現できるような努力を一心不乱にし続ける。(ノーベル賞を貰う学者にも負けず劣らず何十年も一つの事に向かい続ける)
そんな思いで演奏に臨むが、毎回微妙に、しかし確実に演奏は異なる。
10回弾けば10回の別の演奏になってしまう。ましては違う人間が弾けば、その人間の数だけ全く違う演奏結果が生まれる。これは自明の理である。むしろ他人には再現できない世界をひたすら求めているのだろうか。
誰が何度でも同じ結果を出す事のできる物理学の真理の対極に位置しているのだろうか。
だが、受賞の知らせがありその業績が報じられると無条件に嬉しい気持ちがふつふつと湧いてくる。

最近私は、曖昧なものへと価値観がだんだん傾斜しかかっているようである。
明らかではない物への魅力。漠然とした不確かな物への興味。
庭の奥の竹林を通り抜ける風の音の一つとして同じ音がない事をえらく感心して、濡縁でいつまでも聴き惚れている。
竹林にまた風が通り抜け、高い所が少し揺れた。夕暮れも深まり、空の色は刻々と生き物のように変わりつつある。
こういった現象は物理学の法則がもたらすものであろうが、見ていると、夕焼けの色の変わりようの耐え難い程の美しさに何の法則もなくて、ただそこに拡がりゆく空と雲があるだけのような曖昧な気持ちが、これから訪れるであろう夜の闇の拡がりのように静かに湧いてくる。

石蕗の花の輝きは夕闇の庭の奥へと消えた。