今まで出くわしたことの無い濃い霧がこの2~3日続き、岩国空港発着の飛行機全便が欠航になった。我が家に通ずる竹林にも霧が流れ、家から見上げる米山(標高六百メートル位)もすっぽり覆われ、霧の他何も無くなった。いつも視界に入ってはいても気に留める事のない米山が全く見えなくなると不安になる事に気が付いた。

冬、眠っていた山が春になり、息づき始め、白く斑点の如く点在するのは山桜。染井吉野が咲く頃には山は笑う。我が家、我が集落を守るようにそびえる米山。その山の向こうには何があるのだろうと空想を誘うのも山。子供の頃過ごした宇部は200~300メートルの低い山しかないが、山のこっちと山の向こうは全く別の世界が存在する強い実感を子供心に持っていたことを思い出す。

大人になってもその実感は胸の底にうごめいている。

自分の知らない事、見たこともない事、不思議な事が、見えない山の向こうに確かにありそうな衝動を山の稜線は与えてくれる。太古の昔から変わらず人の営みを黙って見てきた山の大きさにすがりたい気持ちにもなる。何をぶっつけても山は何も答えてくれない大きさにむしろ安らぎさえ感じる。その山の向こうにはさらに大きなものが有りそうな空想を山は黙って誘ってくれる。

想像を絶する量の正確とみなされた答えを、瞬時に与えくれ続けるコンピューターの画面は笑いもしない。したたりもしない。装いもしない。眠りもしない。

もう答えは要らないのではないか?

答えがないと落ち着いていられない世の中にだんだんなってきているのだろうか。

庭の池のほとりの無数に付いた白い八重の椿の大きな花は落ちる時、どさっと音を立てる。山よりもさらに大きな力がその音を受け止めている気がする。

陽が射し、午後になり、霧が少し晴れてきた。米山が少し見えてきた。

安心して熱いコーヒーを濡縁で飲む。