ほどよい遠さに横たわる山に、とびとびに不規則に点在する綿帽子の様な「白」は自生する山の桜。山の息づかいをその「白」に感じる。
そんな頃になると固くつぐんでいた広葉樹の初めての芽たちが、さざ波が沸き起こる様に山にうっすらと色を付け始める。眠っていた大きな生命(いのち)が再び生き返ってくるこの季節は嬉しい。海は一足先にすっかり春になり切ってしまった色が水平線にまで続いている。
何度となく季節の変わり目をきちんと持つ日本に生まれて幸せを感じる。
今が旬の細魚(サヨリ)の美味しさにもこの季節の到来を感ずる。昨夜は、顔を出し始めた竹の子を掘って食卓にのせた。新わかめと煮た竹の子の初物の優しい、しかしきりっとした味わいは何とも言えぬ喜びを体に与えてくれる。満開の錦帯橋の桜も昨日観に行った。鬼押し出しの巨大な巌の様な幹の黒光りが一層満開の花を引き立てる。
朝起きたらまずヴァイオリンに向かい、A(ラ)の音をゆっくり弾く。朝の空気の中に音が静かに響き流れてゆく。大気に染まる様に鳴り始める。次はD(レ)の音を同じくゆっくり弾き流す。G(ソ)、E(ミ)と次々に鳴らしてゆく。大気を伝って林の樹々に届く音。
ヴァイオリンの音は春の息づく林に響き、流れる。音にも季節感を求める事は有り得ないことだろうか?
春の音、夏の音などその季節の大気に一番なじむ音の響きがあっても良さそうな気がしてきた。
ベートーヴェンのクロイツェルソナタを弾いても、春の音で演奏するのと、秋になじむ響きで演奏するのとではベートーヴェンの音楽にも微妙な違いが出てくるのではないか?季節感の息づく演奏がある気がしてきて、そんな演奏がしたくなった。
春真っ只中の今の季節に氷見(ひみ)の寒ブリはそぐわない。やはり細魚だ。
いずれは終わってしまう春が逃げないようにヴァイオリンを弾き続ける。
山とともに息をしたい。
山は動かない。
そんな頃になると固くつぐんでいた広葉樹の初めての芽たちが、さざ波が沸き起こる様に山にうっすらと色を付け始める。眠っていた大きな生命(いのち)が再び生き返ってくるこの季節は嬉しい。海は一足先にすっかり春になり切ってしまった色が水平線にまで続いている。
何度となく季節の変わり目をきちんと持つ日本に生まれて幸せを感じる。
今が旬の細魚(サヨリ)の美味しさにもこの季節の到来を感ずる。昨夜は、顔を出し始めた竹の子を掘って食卓にのせた。新わかめと煮た竹の子の初物の優しい、しかしきりっとした味わいは何とも言えぬ喜びを体に与えてくれる。満開の錦帯橋の桜も昨日観に行った。鬼押し出しの巨大な巌の様な幹の黒光りが一層満開の花を引き立てる。
朝起きたらまずヴァイオリンに向かい、A(ラ)の音をゆっくり弾く。朝の空気の中に音が静かに響き流れてゆく。大気に染まる様に鳴り始める。次はD(レ)の音を同じくゆっくり弾き流す。G(ソ)、E(ミ)と次々に鳴らしてゆく。大気を伝って林の樹々に届く音。
ヴァイオリンの音は春の息づく林に響き、流れる。音にも季節感を求める事は有り得ないことだろうか?
春の音、夏の音などその季節の大気に一番なじむ音の響きがあっても良さそうな気がしてきた。
ベートーヴェンのクロイツェルソナタを弾いても、春の音で演奏するのと、秋になじむ響きで演奏するのとではベートーヴェンの音楽にも微妙な違いが出てくるのではないか?季節感の息づく演奏がある気がしてきて、そんな演奏がしたくなった。
春真っ只中の今の季節に氷見(ひみ)の寒ブリはそぐわない。やはり細魚だ。
いずれは終わってしまう春が逃げないようにヴァイオリンを弾き続ける。
山とともに息をしたい。
山は動かない。