秋はまず光からやってくる。
日の短さを感じるだけでなく、射す光の様子が秋になってきている。そして空気。目には見えない大気の在り方が微妙に秋になってくる。
そして光と大気に包まれた海が秋になってくる。波のちょっとした仕草が秋になっている。
山の秋は一番最後にやってくる。
携帯を壊して持たずに上京。6年前までそうであった様に公衆電話生活を1週間都会で送った。宿は使っていない弟子のアパート。そこは由あってテレビもラジオも無い。陽が落ちて秋の夜の大気に包まれてくるそのアパートの一室で一人食事をする。外界との交信は最寄り駅の公衆電話のみ。歩いて行くのもおっくうだ。55年前高校1年生からの東京での下宿生活がよみがえってくる。西武池袋線東長崎駅近くの閑静な洋館住宅の離れでの自炊生活。当時テレビはぜいたく品、当然無くラジオも無い。電化製品といえば机上の蛍光灯と炊飯器のみの一人生活。夜になれば自分以外の世界とのコミュニケーションは本のみ。スタンダール「赤と黒」ジッド「狭き門」高橋和己の著作など秋の夜のふけた中、本を通じての世界は重く、厚い大きい存在を感じさせる外界であった。その外界の圧倒的な大きな力に比べて自分の小ささを衝撃的に感じ、とてつもない孤独感を感じたものだった。
そんな大昔の下宿生活の秋の夜がよみがえって、何とも気持ちのいい一人の夜を1週間送った。
55年経った現代、人々はスマホを通して地球的なレベルで一瞬一瞬途切れなく交信でき、気の遠くなるような量の外界の情報に包まれた毎日が普通になっている。外界からのコミュニケーションの渦は人間を休ませてくれない。孤独になれなくなっている。孤独を奪われてしまっている。孤独をoffにされた人間はどう息をしてくのだろう。
秋の最後にやって来るのは山。
広葉樹の紅葉で秋真っ只中になる。新緑の若葉から、老いて少しずつ色づき、鮮やかな紅葉になっていく葉の一生。紅葉した一枚の葉は羨みたくなるような充実した孤独を生き抜いたなと感じさせてくれる。そんな一葉一葉が無数に寄り集まり山ひとつの紅葉を作り出している。見事だ。
人間社会もかくありたい。